特亜::混乱の大陸にて::中国流

中国流
 20年以上も前になりますが人生の師と仰いだ先生から聞いた話です。
 
 ある日突然、先生の作品を中国語に翻訳して出版したい旨の話が中国文化関係者からきます。
 作家はひとりでも多くの読者に読んで貰えることが至上の喜びですから快諾します。すると直ぐに好条件(初版5,000部など)が提示され、出版前に全額が振り込まれ、また、学校の教材にも使用したいとの申し出もありました。
 日本で純文学というジャンルの作家は、読者層も限られるため、発表の場すらない作家も多く、初版3,000部が通常ではなかったかと思われます。
 エンタ-ティメントの作家と異なり原稿用紙一枚あたりの原稿料の単価も安く、文芸誌2,3に連載を持っていても、大変な作業の割には慎ましい生活を余儀なくされています。ダカラ新聞の文芸欄にエッセイや評論を書き、数々の文学賞の選考委員も引き受けていましたが、講演やマスコミへの出演依頼は決して受けませんでした。楽してお金を稼ぐことを覚えると、一字一字身を削り苦難の先に生み出される作品など書けなくなると、「口舌の徒にはならない」と戒めていました。
 それから程なく中国から招待の話が来ました。日程には中国政府・文化関係者などとの交流や講演。特別に許可がなければ見学できない名所旧跡、博物館、日本で言う人間国宝(名人)の手彫りの品などの贈呈等々が組まれており、大金は掛けずとも人間の虚栄心、心を擽るような内容でした。作家は、良くも悪くも経験が全て作品に転化出来るので快く受け、中国(歴史、現状)について猛勉強後に旅立ちました。
 
 空港に降り立つと仰々しいほどの沢山の人の出迎えを受け、派手な歓迎パ-ティと2〜300人ほどの人達との名刺交に驚き、その名刺は、日本のスタンダ-ドサイズの二回り大きいサイズの、その表裏に肩書きがびっしり書き込まれ、その数が多い程エライと見なされ、先生の氏名と住所だけが書かれた小さい名刺に驚いたようで、コイツ本当に作家なのかと、疑っている様子だったということでした。
 その頃中国でマンションがまだ珍しい時代、共産党幹部のひとりがマンションに住んでいて自慢したいらしく、招待を断り切れず尋ねると、マンションなのに鉄の扉の内側にもうひとつ鉄製の蛇腹の扉があり、治安が良くないことを感じた。トイレには水が張ってあるバケツが置いてあり、用後は杓で水を流さなければならなかった。2LDKの広さに2世代6人が住んでいて、それでも彼は誇らしい様子であれこれ自慢していた、と言うことでした。
 施設や名所旧跡見学には共産党幹部がぴったり付いて、その各所の特徴を象ったブロ-チ・バッチや、人間国宝が目の前で彫ってくれる落款、(中国皇帝だけに許されていたという、宝珠を抱いた5本指の龍が雄々しく天に向かい泳いでいる図柄)と、皇帝だけに許されたとする文様と色彩の、落款を収める入れ物。落款と同じく宝珠を抱いた5本指の文様が浮き出た容器に入った朱肉と、収める入れ物がセットになっている品で、別に先生はおみやげ用として特別にお願いして彫って貰い、私を含めて2〜3人がセットでいただきました。(その仕様の仰々しい様は中国独特と感じましたし、彫りは名人とのことでしたが、私はそれに価値を見る方ではありませんし、字体も余り好きではありませんでしたが、先生が亡き後は想い出多い大切な形見の品となりました)。
 車で移動中も、汽車も通らないのに二本の線路を前に長時間停車したままなので、聞いても理由も待つ時間も分からず、神経が疲弊し本当に草臥れた。また、テ-ブルの上.床、道端と処構わずペッペッと唾を吐くので、日本人の感覚ではとても堪えられないとの事でした。
 中国人は些細な関係も利用し、どんどん中に入ってくるようで、帰って後に名刺を交換した人達から色々アプロ-チがあったようですが、極力回避したようで、その後2作目の翻訳出版の話はお聞きしはていません。先生は文学賞の選考で、作品のはじめの2行を読めばどういう作品か分かると仰っていましたが、中国に対しては直感として近寄ってはいけない何かを感じられたのだと思います。

 ほんの2,3の例しか紹介できませんが、純文学の作家という地味な存在の文化人にも精神を擽るような接待をする。常套手段なのでしょうが、また、中国からしてみれば可愛らしい部類でしょうが、どんな分野に対しても中国との関係の楔を打とうとする中国流は、政官財、その他あらゆるところに及んでいるでしょうし、それは日本だけに限っていないことは自明の理であり、その資金源は、あれこれ理屈や脅しをかけて日本から分捕った税金そのものが、日本国自体を貶めているのではないかと思うと、やりきれない気持ちになります。 
2010/05/31(月) 00:33:35| URL| はる #- [編集]