国内::政治::鳩山政権カンサツ::<東アジア共同体(日本解体青写真)を5月までに取りまとめます(キリッ

脱税首相は相変わらず、「東アジア共同体」に固執しているようですね。
だれも相手にしてくれないというのに・・・

鳩山首相東アジア共同体、大胆に積極的にスピード感持って5月に具体化」…取りまとめ指示
http://inanna-search.net/index.php?cmd=cmt&cat=link&cnum=INA0000295319
2010/03/19(金) 21:41:31| URL| ワニ #- [編集]



中国人 民主党 大好きアルよ〜!
民主党は頼んでもないのに東アジア共同体ぶちあげたアルよ〜!タダで日本の技術と金が手に入るアルよ!中国人 民主党 大好きアルよ!楽して大儲けするアル!日本人が力尽きるまで働かせて、力尽きるたらチベットウイグルみたいに制服するアルよ!日本人は奴隷アル!日本人が妊娠したら中絶させて産ませないアル、どしどし移民して、漢民族単一国家にするアルよ!日本の土地・金・技術は中国が全部もらうアルよ!2億までの移民準備はできてるアルから、民主党は早く外国人参政権強行採決するアルよ!民主党は次の選挙も勝つアルよ〜!中国の指示は汚沢から聞くアル、汚沢の指示は中国の指示アル!選挙資金は朝鮮パチンコマネー使うアルよ〜!
2010/03/19(金) 20:26:25| URL| 中国人 民主党 大好きアルよ〜 #- [編集]

青山繁晴のココだけ話!第十一回(幸福論編)

http://www.youtube.com/watch?v=nSxj6tOonE4


google:仁徳天皇 かまど より


http://www.rekishikaido.gr.jp/time-trip/kaido/kdsakai.htm
聖帝・仁徳天皇  民のかまどは賑いにけり

 仁徳天皇の四年、天皇が難波高津宮から遠くをご覧になられて
 「民のかまどより煙がたちのぼらないのは、貧しくて炊くものがないのではないか。都がこうだから、地方はなおひどいことであろう」
 と仰せられ「向こう三年、税を免ず」と詔(みことのり)されました。それからというものは、天皇は衣を新調されず、宮垣が崩れ、茅葦屋根が破れても修理も遊ばされず、星の光が破れた隙間から見えるという有様にも堪え忍び給いました。
 三年がたって、天皇が高台に出られて、炊煙が盛んに立つのをご覧になり、かたわらの皇后に申されました。
 「朕はすでに富んだ。嬉ばしいことだ」
 「変なことを仰言いますね。宮垣が崩れ、屋根が破れているのに、どうして富んだ、といえるのですか」
 「よく聞けよ。政事は民を本としなければならない。その民が富んでいるのだから、朕も富んだことになるのだ」
 天皇は、ニッコリされて、こう申されました。
 そのころ、諸国より
 「宮殿は破れているのに、民は富み、道にものを置き忘れても拾っていく者もありません。もしこの時に、税を献じ、宮殿を修理させていただかないと、かえって天罰を蒙ります」
 との申し出が頻頻とあるようになりました。
 それでも、天皇は引き続きさらに三年間、税を献ずることをお聞き届けになりませんでした。六年の歳月がすぎ、やっと税を課し、宮殿の修理をお許しになりました。その時の民の有様を「日本書紀」は次のように生き生きと伝えている。
 「民、うながされずして材を運び簣(こ)を負い、日夜をいとわず力を尽くして争いを作る。いまだ幾ばくを経ずして宮殿ことごとく成りぬ。故に今に聖帝(ひじりのみかど)と称し奉る。みかど崩御ののちは、和泉国の百舌鳥野のみささぎに葬し奉る」
1991年12月掲載




http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/nintoku.html
みつぎ物ゆるされて、国富めるを御覧じて
高き屋にのぼりて見れば煙
けぶり
立つ民のかまどはにぎはひにけり(新古707)

【通釈】高殿に登って国のありさまを見わたすと、民家からは煙がたちのぼっている。民のかまども豊かに栄えているのだなあ。

【語釈】◇みつぎ物ゆるされて 租税を免じられて。

【補記】新古今集巻七賀歌巻頭。延喜六年(906)の「日本紀竟宴和歌」の「たかどのにのぼりてみれば天の下四方に煙りて今ぞ富みぬる」が誤伝され、仁徳天皇御製として伝わった歌という。例えば『和漢朗詠集』には作者不明として見え、『水鏡』『古来風躰抄』などには仁徳天皇御製として載っている。

【主な派生歌】
見渡せば村の朝けぞ霞みゆく民のかまども春にあふ比(後鳥羽院[玉葉])
高き屋に治まれる世を空にみて民のかまども煙立つなり(藤原雅経[続後撰])
足曳の山田の早苗とりどりに民のしわざはにぎはひにけり(後嵯峨院[続後拾遺])
今も猶民のかまどの煙までまもりやすらん我が国のため(後宇多院[新千載])
たかきやにけむりをのぞむ古にたちもおよばぬ身をなげきつつ(長慶天皇)
かまどよりたつや煙も高き屋にのぼる霞の色とみゆらん(正徹)
これまでやなにはの宮のたかき屋に煙をそへてみつの浜松(〃)
世は春の民の朝けの烟より霞も四方の空に立つらん(後水尾院)
高き家(や)に君とのぼれば春の国河遠白し朝の鐘なる(与謝野晶子)












新共同訳より

ヨハネによる福音書 12 20〜28節

<<ギリシャ人、イエスに会いに来る>>

さて、祭りのときに礼拝するためにエルサレムに上ってきた人の中に何人かのギリシャ人がいた。

彼らは、ガラリヤのベトサイダ出身のフィリポのもとに来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。

フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。

「人の子が栄光を受けるときがきた。

はっきりと言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが死ねば、多くの実を結ぶ。

自分の命を愛するものは、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。

わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕えるものも居ることになる。わたし仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」


<<人の子は上げられる>>

「今、わたしの心は騒ぐ。何と言おうか。『父よわたしをこのときから救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。

父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」

国内::皇室・皇族::国見

往古
google:国見 仁徳天皇より

http://blogs.yahoo.co.jp/mizunoene17/40383806.html
「東野炎 立所見而 反見為者 月西渡」 は、立所見而 を 「見ゆるところに立ちて」 と読み、(天皇がする) 国見 のことだと思う ということを、前に書きました。 → http://blogs.yahoo.co.jp/mizunoene17/40348522.html

国見 (くにみ) は、古事記に その始めには神武天皇がされたことが記され、又、仁徳天皇がされ、又、雄略天皇がされたことが記されています。

古事記」 は 雄略記の長い記述の後は格段に量が減り、武列天皇以後9代の天皇の記述は箇条書き程度となり、そして、推古天皇 の即位と崩御が記されて終わっているのですが、あたかもその後を引き継ぐかのように、「万葉集」は巻頭に 雄略天皇 の歌を載せて始まります。

万葉集」 ー 巻1 、雄略天皇の歌の次に載っているのが、次の、舒明天皇 が御製の ‘国見(くにみ)’ の歌です。
天皇、香具山に登りて望国(くにみ)したまふ時の御製歌

    山常庭 村山有等  取與呂布 天乃香具山
    騰立 国見乎為者  国原波 煙立龍
    海原波 加万目立多都  怜シ国曾 蜻嶋  八間跡能国者

  大和(やまと)には 群山(むらやま)あれど  とりよろふ 天(あめ)の香具山 
  登り立ち 国見をすれば   国原(くにはら)は 煙(けぶり)立ち立つ 
  海原(うなはら)は 鴎(かまめ)立ち立つ  美(うま)し国ぞ 蜻蛉島(あきつしま) 大和(やまと)の国は

この 舒明天皇 が御製の国見の歌 と、人麻呂の‘安騎野の歌’の短歌4首に使われている漢字には、同じか相応するものが あります。

天皇は この世界が全て見渡せるところ、即ち 中心、そこに立って国見をするので、広い を意味する 原 、八 、又、全部 を意味する 万 、そして 立 などの文字が入っているのです。

舒明天皇の歌に、騰立 、煙立 、という文字があります。

人麻呂が、東 ー 野 ー 炎 ー 立、と文字を並べたのは、同じ 「万葉集」 ー 巻1 にある、この 舒明天皇 の国見の歌 が、読む人に想起されることを図ってのこと だと察せられます。




近現代
google:国見 昭和天皇

 昭和22年12月5日〜8日昭和天皇は広島へ行幸されました。

広島市長浜井信三氏
「市中を展望していただくために、屋上へとご案内申し上げた。」
「陛下は市中のあちこちを眺めておられた。」
「『家が建ったね』。とポツンと一言おっしゃった。そして感慨深げに街の方へ目をやっておられた」

 原爆ドームを背景に広島市民は「天皇陛下万歳!」を繰り返します。原爆によって打ちひしがれた広島市民はどれだけ勇気づけられたでしょうか。広島復興の起点はここにあるような気がします。
 私は広島で生まれ育ちましたがこの話は一度も聞いたことがありませんでした。「天皇人間宣言をした」というのは学校では教わりました。

 昭和21年1月1日昭和天皇は「新日本建設に関する詔書」を発布しています。これはよく人間宣言と言われており、GHQの要望により神格化否定の一文をいれていますが、昭和天皇は自分が神だと一度も言ったことはなく、後の記者会見で昭和天皇は日本国民が日本の誇りを忘れないように、立派な明治大帝の考えがあり、日本には独自の民主主義の伝統があることを思い出して道を示すことが目的だったと語られています。当時の国内報道でも人間宣言のことが報じられた形跡はなく、当たり前のことだったと思われます。おそらく後になってGHQなり、反国家団体が皇室を賤しめ、日本人を賤しめるため「人間宣言」と言い始めたのでしょう。

 昭和天皇は日本国民を励ますため、全国行幸されます。これもGHQは昭和天皇が国民の前に姿を現すことにより、権威を失墜させようとする意図があったと思われますが、ところがどっこい万歳三唱の雨あられであり、驚いたことでしょう。天皇陛下は神話の時代から民とともにあり、欧州のように権力と財力を持って威張った皇帝ではないですから、感覚の違いがあったのでしょう。

「朕は爾等国民と共に在り、常に利害を同じうし休戚を分たんと欲す」新日本建設に関する詔書の一文より。(休戚とは喜びも悲しみも、という意味)



参考映像
 昭和のカラー画像 http://www.youtube.com/watch?v=EcJN4MNFAhM
参考文献
 「日本人としてこれだけは知っておきたいこと」中西輝政
参考サイト
 Wikipedia昭和天皇」「人間宣言
 我が日本どうなる http://blogs.yahoo.co.jp/bonbori098/18169133.html

広島ブログ 参加しています。クリックで応援よろしくお願いします。


暦::資料::大正関東大地震と裕仁摂政(昭和天皇)と国見

google:国見 昭和天皇 大正関東大地震
http://plaza.rakuten.co.jp/ryogoku/diary/200609010000/
皇室と関東大震災後の本所被服廠との関係は、大震災が発生した後、大正12年(1923)9月15日に当時摂政だった昭和天皇が上野の山に立ち帝都の惨状を眺める国見をされ、後年、昭和5年(1930)3月24日に再び国見をされた際に本所被服廠跡を訪れたことにより生れました。
当日、午前9時45分、天皇は宮城を出発し、九段坂上→府立工芸学校→上野公園→隅田公園→震災記念堂(本所被服廠跡)→市立千代田尋常小学校→市立築地病院、そして午後2時15分に宮城に戻りました。天皇の震災記念堂滞在記録によると、午前11時49分から正午までの11分間でした。これは、天皇が大地震発生の時間、午前11時58分を震災記念堂と迎えられたことを意味しています。当時の震災記念堂の納骨堂には6万数千人の犠牲者が祀られており、天皇は堂内正面の祭壇に向かって黙祷を捧げ、祭壇両脇の陳列室に入り(現在、陳列品は東京都震災復興記念館に展示されています)、震災の痕跡を示す数々の展示品や資料を足早に閲覧されたと伝えられています。



google:裕仁摂政
wikipedia:昭和天皇
大正天皇の病状悪化の中で、同年3月3日から9月3日まで、軍艦香取でイギリスをはじめ、フランス・ベルギー・オランダ・イタリアのヨーロッパ5カ国を歴訪。同年11月25日、20歳で摂政に就任し、摂政宮(せっしょうみや)と称した。
1923年(大正12年)4月、軍艦金剛で台湾を視察する。同年9月1日には関東大震災が発生し、同年9月15日に大震災による惨状を乗馬で視察した。同年10月1日に御学問開始。同年10月31日に陸海軍中佐に昇任した。同年12月27日には、虎ノ門付近で狙撃されるが、命中を免れ命を取り留めた(虎ノ門事件)。1924年大正13年)に、良子女王と結婚した。1925年(大正14年)4月、赤坂東宮仮御所内に生物学御学問所を設置。同年8月、軍艦長門樺太を視察。同年10月31日に陸海軍大佐に昇任した。同年12月、第一皇女・照宮成子内親王(後の東久邇成子)が誕生。
1926年(大正15年)12月25日、父・大正天皇崩御を受け、葉山御用邸において践祚して第124代天皇となり、昭和と改元[2]。